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キヤノン ラグビー フットボール クラブ 選手インタビュー
vol.1 前田 貴洋(まえだ たかひろ) 『立ち向っていって勝った時の喜び』
――初めてのインタビュー、よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
――78年8月4日生まれ、ご出身はどちらですか?
大阪です。
――大阪にはいつまでいたんですか?
大学卒業までいました。
――その後、東京へ出てきたということですが、それは大きな決断でしたか?
あまりそうではなかったですね。関西に残ってラグビーをするか、関東に出てラグビーをするかを考えましたが、それほど関西だとかと関東だとか場所は意識せず、セコムにお話を頂いたので、それで決めたらたまたま関東の埼玉だったというくらいですね。
――そのセコムに7年半、そしてキヤノンに来たということですね。
そうですね、2008-2009シーズンからキヤノンに来ました。
――キャプテンになったのは?
4月からキヤノンのシーズンがスタートしていて、下村(健)がキャプテンをしていて、そこに僕とか今井さん(通/バイスキャプテン)が8月に入ってきて、翌年つまり、今年の4月からキャプテンになりました。
――その時は手を挙げたんですか?
いえ。部長からシーズンが始まる前に言われました。
――返事はすぐにしたんですか?
そうですね。指名して頂いたことは光栄なことなので、大したことは出来ないですけど「やります」ということで返事をしました。
――大学時代やセコムの時代にそういう役割を任されたことはあったんですか?
ないですね、やったことがあるのは高校の副キャプテンくらいですね。
――自分としては、どういうことを求められてキャプテンに任命されたと思いますか?
去年までいたチームのメンバーと同じくらいの人数が今年新しくチームに加わるということでした。大学生からも10人くらい、他のチームからも10人くらいが入ってくるということで、それをまとめることが仕事ということを言われましたし、通常のキャプテンとは少し違って、ある程度出来上がっているチームをまとめるというよりは、みんながバラバラにならないようにまとめるのが仕事かなと思っています。
――31歳ですと、年上の選手はあまりいませんね。
バイスの今井さんの他に、今井さんの同期の及川さん(英典)がいます。
――年齢に対して、体の方はどうですか?
まだまだ伸びるというよりは、落ちないように頑張ってます(笑)。セコムで2007-2008シーズンが終わって一度引退をして、セコムで営業をしていたんですけど、7月に声をかけて頂いて、8月にキヤノンに入部しました。
――そうすると、半年くらいはラグビーから離れて営業をしていたということですね?
そうですね。3月から7月半ばくらいまでですね。現役の時は業務半分、ラグビー半分で警備員のサポート業務などをしていたんですが、引退して営業をしはじめたところでした。
――キヤノンに会社が変わって全く仕事が違うと思いますが、どうですか?
何の縁か分かりませんが、「セキュリティー管理課」というところに配属になりました(笑)。
――それはキャリアを見て配属されたんでしょうか?
最初に内示を見た時に少なからずはそういうこともあったのかなとは思いましたが、どうなんですかね(笑)。たまたまだと思います、業務内容は全く違いますからね。総務部の中なので、総務職が多いですね。
――普段の仕事とラグビーの時間配分はどうなっているんですか?
今のシーズンは仕事が11時までで、14時から練習でした。その前は仕事が12時までで15時から練習という時もありました。
――仕事場はどこですか?
下丸子本社です。
――グラウンドのある淵野辺までは少し距離がありますね?
そうですね。でもセコムの頃もこれくらいか、むしろもう少しかかっていたかもしれないくらいなので、そんなに遠くは感じていないです。
――セコムに所属していた時などと比べて、今のキヤノンはどうですか?
まだ今年集まって出来たチームという感じなので、春先はまとまらなかったというか、方向性が明確ではなかった時期もあったんですけど、夏合宿くらいから1つのチームだと実感できるような内容の試合が出来るようになってきて、今までの何もなかった時から比べると、セコムでは感じたことがないような急激な伸びというものがあるチームだと思います。
――その夏合宿を終えて、開幕戦に勝ちましたね。
そうですね。6月からずっと開幕戦を意識してやってきましたので、良かったですね。
――第2節の秩父宮での横河電機戦では、やられたというところもありましたが、やったというところもありましたね。
そうですね、やはり昨シーズンまでトップリーグで戦っていたチームですから甘くはないんですけど、何もできずに終わったというよりは、80分間の中の何分かはアタックにしてもディフェンスにしてもキヤノンらしさが出せたと思っています。
――試合後に会長がグラウンドに降りて選手と握手をしていましたね。
グラウンドまで降りてきて下さって、握手をして激励の言葉をかけてくださったんですが、あの試合、私はウォーターボーイをしていたので、近くにはいなくて何をおっしゃっていたのかは聞けませんでした(笑)。
――大阪で生まれていつからラグビーを始めたんですか?
幼稚園からです。豊中ラグビースクールです。大阪では結構有名なスクールで、トップリーガーも何人か出てるスクールです。
――きっかけは何だったんですんか?
きっかけは、近くにあった、それだけです(笑)。両親が別に運動が好きなタイプではなかったんですが、男の子で、幼稚園の時に少し体が大きかったので、何か運動させようと思ったんでしょうね。毎週親父に連れられて行っていました。当時はまだ4歳か5歳くらいですから、ただボールを持って走りまわるだけなんですが、小学校の4年生くらいまではルールもあまり分からずに、いやいや毎週日曜日に連れて行かれていました。
――練習が辛くて嫌だったんですか?
まず訳も分からずグラウンドに連れて行かれて、コーチに走れって言われて、しかもルールが分からないので何をやっているかも分からずでした。日曜日の午前中なのでテレビアニメとかも見れず、嫌でしたね。
――ご兄弟はいますか?
姉がいます。
――ではラグビーではあまり関係ないですね。
普通はそう思うと思いますが、幼稚園で姉も2年だけラグビーをやっていました。ですが、姉の影響でラグビーを始めたわけではありません。自分の意志ではなく、無理やりです(笑)。
――小学校4年生くらいでやっとラグビーが面白いなと思ったんですか?
そうですね。大阪の大会などで優勝したりするようになってきて、面白くなってきました。
――ポジションはどこをやっていたんですか?
スタンドオフが多かったですね。その後中学校までラグビースクールでやったんですけど、その後もスタンドやセンターが多かったですね。
――大会のどの辺が面白かったんですか?
やっぱり勝つことですね。
――チームは強かったんですか?
そうですね、大阪に20チームくらいあったんですけど、だいたい毎年優勝か準優勝でしたね。
――具体的に勝つこと以外でラグビーの面白さとは何でしたか?
面白いと思うのは、自分のパスや走りで良いプレーが出来た時ですね。もちろんトライもできたら嬉しいですし、勝つことにつながるプレーが出来た時ですね。練習でも一緒ですね。良いプレーが出来た時は嬉しかったです。
――小学校で野球をしている友達やサッカーをしている友達がいて、気持ちが動いたりはしませんでしたか?
野球が大好きだったので、日曜日はラグビースクールに行っていましたが、平日は学校から帰ってきたら野球をしてました。野球のチームが小学校3年生から入れて、一緒に野球をしていた友達がみんな入って、「僕も入りたい」って親に言ったんですけど、何て言われたかは忘れましたが、良い具合に言いくるめられました(笑)。今となっては感謝してますけどね。
――中学に入る時には他の部に入るチャンスもあったんじゃないですか?
結局ラグビースクールには中学校までいたんですけど、自分の中学校にはラグビー部がなくて、小学校6年生の頃にはもうラグビーを続けようと思っていて、勉強しなくていいなら、高校も大学も社会人になってもやりたいなと思っていました(笑)。中学校では陸上部に入って、週末ラグビースクールに行っていました。
――陸上部に入ったことはラグビーでも役に立つことが多いのでは?
大阪は結構ラグビーが盛んで、中学校にラグビー部があるところは多いんですけど、逆に部活で毎日ラグビーをするという環境ではなく、毎週末だけラグビーをして、平日はいろんなスポーツをしたということが、あとあと考えると良かったのかなと思います。高校に行ったら嫌でも毎日ラグビー漬けですからね。
――高校はどこに進学したんですか?
報徳学園に行って、それからはラグビー漬けですね。
――きつかったですか?
きつかったです。高校はみんなきついと思いますけどね。けど中学校を卒業する時にはラグビーで生きていきたいなと思っていたので、覚悟はしてました。
――中学校の時点でそこまでラグビーにはまったのは、影響を与えられた人がいたんですか?
ラグビースクールの時にラグビーが面白く感じ始めた時に、もともとリコーでやっていた人が来てくれていて、そこで本格的な指導を受けてからですね。練習は厳しかったんですけど、良いプレーができたら褒めてもらったり、そういうところで好きになりました。
――高校の思い出は何かありますか?
しんどかったことだけですね。
――花園は?
一応3年間続けて出場しました。
――結果はどうでしたか?
1年生の時が3回戦、2年と3年は2回戦です。
――高校時代いちばん思い出に残る試合はありますか?
3年生の最後の試合ですね。花園で日川高校との試合です。最後の試合になるかもしれないということで、全力を出し切ろうと望んで、チームとして全力を出し切ったんですけど、僅差で負けました。
――その時もバックスをやっていたんですか?
いえ、高校に入った時はバックスで入ったんですけど、学年でいちばん体が大きかったので、春からちょっとずつフォワードをやっていて、夏には完全なフォワードになっていました。
――ポジションは?
1年生の間はロックでした。2年からはナンバーエイトです。
――大学はどうやって決めたんですか?
関東に行くか、関西に残るか迷ったんですが、関東に出るとお金もかかるしいろいろ大変そうだったので、関西に残ることにしました。その中で、龍谷大学に先輩もいて、自由な感じで、その頃は関西リーグで3位とかになっていたんで、良いなと思って決めました。
――ご両親がラグビーに詳しいわけでもないそうですが、その辺も全部自分で決めたんですか?
そうですね。
――結構決断力がありますね。
あんまり後先考えずに決めていたんですけどね(笑)。
――ご結婚はされているんですか?
はい。
――それではキヤノンに入る時は相談したんですか?
相談というか、報告に近かったですね(笑)。
――何て言っていましたか?
「何となく分かってたけど、決めたのね、そっかー」っていう感じですね。
――ご両親は応援に来てくれるんですか?
関西の試合では大体来てくれて、こっちでの試合は年に1回か2回くらい来ますね。
――大学時代で思い出に残ることはありますか?
高校と変わって自由な部の雰囲気で、関西でも「練習もあまりしないのにそこそこの成績を残す」と有名な大学だったんですが(笑)、当然それでは通用しなくなって今は2部に落ちてしまいました。僕が在学中の4年間は関西リーグで3位、4位、6位、6位だったと思います。
――「練習をあまりしない」という中でみんな自主トレをしていたんですか?
自主トレもあまりしないですね。高校時代の貯金でやっているような感覚ですね。社会人になってもラグビーをすると考えていた人は自主トレをしっかりやっているという状況でしたが、少数派でしたね。
――その後社会人でセコムに入ったわけですね?
そうですね。卒業の頃はまだトップリーグもなくて、大学4年の時にセコムが東日本リーグに上がりました。僕がセコムに入った年はまだ東日本リーグ2年目の時で、セコムも全然強豪チームではなく、まだこれからというチームでしたが、そういうところでやりたかったので決めました。
――セコムでのポジションは?
エイトとフランカーですね。
――セコム時代の良い思いでは?
やはりトップリーグの1年目で、3連勝した時ですね。その年に自動降格はしたんですが、それが一番楽しかったですね。
――自分のプレーで思い出に残っているのは?
3連勝をした真ん中のクボタ戦でのトライにつながるアタック、パスができたことですね。
――それは小さい頃にスタンドオフをやっていた成果じゃないですか?
そんなに褒められるほどパスが上手いわけではないですよ。やはりトップリーグの中では体は小さい方なので、相手とぶつかっていくというよりは、走ったりパスで少しでもチームに貢献するしかなかったという感じですね。
――その後は?
トップリーグの1年目のシーズンが終わった後に肩を手術して、肩の手術が終わって、復帰した翌シーズンの夏にアキレス腱を切ってしまいました。
――アキレス腱を切った時の状況は?
高校時代からずっとかかとが痛くて、痛みを我慢しながらやっていたところもあったんですけど、ちょうど切れるシーズンの4月くらいからこれまでにない痛さになってきて、いろいろ痛み止めを飲んだり、トレーナーやドクターに相談して痛みが消える方法を考えていたんですが、結局症状はあまり良くならず、シーズンが近づいてきた8月末の練習試合で切ってしまいました。
――復帰まで、長いリハビリ生活ですね。
そうですね。2006年の10月までかかりました。その間はまたトップリーグの舞台で試合をするということだけをイメージしてリハビリに取り組んでいました。さっき話した3連勝した時に味わったものが忘れられず、またあの感覚を味わいたい、ただそれだけでした。
――晴れて復帰戦は?
2006年のたしか11月のクボタ戦ですね。後半残り30分くらいの出場だったんですけど、まずメンバーに選ばれた時点で嬉しくて、試合が終わった後もずっと嬉しかったですね。ちょうど10月の練習試合で復帰して、その翌週にもう1つ練習試合があって、クボタ戦にリザーブで復帰でした。
――その次の試合ではスタメンですか?
そうですね。次はリコー戦だったんですが、その試合で今度は捻挫をしてしまいました。
――怪我との戦いが多いですね。
大学までは大きな怪我はなかったんですけど、小さい怪我をよくしていて、怪我は多い方でしたね。
――セコムで一度引退したのはなぜですか?
体の限界を感じました。怪我が多くて、スピードも戻らなかったり、自分の良かった時のプレーがなかなか出来ない中で、モチベーションが下がった状態でチームに残りたくないと思いました。
――仕事に専念してからはどうでしたか?
自分で決めて辞めたことでしたし、どちらにしてもラグビーを辞めてからはサラリーマンをするつもりだったので、そんなにラグビーのことは気にせずにいられました。
――そういう中でキヤノンから声がかかったわけですね?
そうです、サラリーマンを始めて4か月です。最初はもうやらないと言っていたんですが、3回も4回も来て頂いて、話だけでもということで、聞くことにしました。佐藤GMと当時のコーチと話しました。
セコムで席が向かい合わせで一緒だった及川さんは、セコムの方針で30歳以上の選手は引退ということになっていたので、社業に専念しているところでした。それでもラグビーができるチームを探しているところで、ちょうど及川さんがキヤノンに行こうと思っているという話をしていたところで、ある程度話は聞いていました。
話の中で、必要としてくれるチームがあるなら、もう1回やってみようという気になりました。やはり正直なところサラリーマン生活は面白くなかったというのもありました。
――復帰してみてからはどうでした?
半年くらい全く動いていなかったので、体重も落ちていますし、8月から動き始めて9月から公式戦が始まるというスケジュールの中で、公式戦を戦いながらちょっとずつ体を戻していった感じですね。
――今年からキャプテンですが、大変なところは?
4月~5月にかけていろいろなチームから選手が入ってきて、外国人コーチが3人来て、ヘッドコーチも代わってということで、不満が出ていた時期もあったんですが、その時期に少しキャプテンは大変だなと思ったくらいですね。
――指導者はそれまでと全員変わったんですか?
そうですね。
――それではチームをまとめるのも大変ですね。
夏合宿でだいぶまとまったという感じですね。
――やりがいや楽しみを感じることは?
何かとチームの顔として扱ってもらえるところですかね(笑)。
――人前で代表で挨拶したりすることはあまり苦にならないんですね?
昔はそうではなかったんですけど、最近は特に苦ではないですね。
――ラグビー歴28年になりますが、ラグビーの何が良いですか?
ほとんどがキツイことだったり、痛いことだったりなんですが、それに立ち向かっていって相手に勝った時に得られる喜びが、他のスポーツにないくらいあるのかなと思っています。
――今シーズンの目標は?
チームとしてはまずプレーオフに進出することですね。あとは今後キヤノンとしてチームの歴史を振り返った時に、あの1年目が土台になっていると思われるようなチームにしたいと思います。
――チーム内に新しいチームを作っているんだという意識はあるんですか?
はい、あります。最初は三洋からやってきた選手の当たり前、IBMの当たり前、セコムの当たり前というものがあって、もちろんキヤノンの当たり前もある中で、日本一になったチームの当たり前と、3部で戦っていたチームの当たり前にはやはり差があって戸惑いもあったんですが、今はみんながキヤノンの当たり前に慣れてきたところですね。
――ファンの方へここを見てくださいというところは?
ボールを動かすラグビーをしようとしているので、結果的には見ていて楽しいラグビー、攻め続けるラグビーをするので見に来て下さい。
――お子様はいますか?
まだいないです。
――できたらラグビーはやらせますか?
まだ分からないですね。良い部分も悪い部分も知っているので(笑)。