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選手インタビュー

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選手インタビュー vol.7 米元 勇一郎2010年1月20日

キヤノン ラグビー フットボール クラブ 選手インタビュー
vol.7 米元 勇一郎(よねもと ゆういちろう)『その時その時の岐路でいい選択をしている』


◆生い立ち

――ご出身は?

東京都千代田区神田です。

――何歳からラグビーを始めたのですか?

中学2年です。

米元選手

地元のお祭りでお子さんと


――他に何かスポーツをしていたんですか?

水泳とゴルフをしていました。幼稚園の時から水泳を始めたのですが、姉がやっていたから始めたのだと思います。けれど、いつもどうやって休むかを考えていましたね(笑)。水泳はあんまり好きじゃなかったので、小学4年生の時に水泳をやめてゴルフを始めました。ゴルフは両親がやっていたのと、周りも家族でやっている人が多くて、最初は打ちっぱなしに遊びに行ったりしていたんですが、僕は覚えていないんですけど、「ちゃんとやりたい」って自分から言ったみたいです。週1、2回ですが、レッスンに通っていました。基本的にスポーツは何でも好きでした。小学校の時はミニバスケもやっていました。勉強よりスポーツの方が好きでしたね。

――ご兄弟は?

姉が1人です。

――中学2年生でラグビーを始めたきっかけは?

明大中野中学校に行ったんですが、中学受験したのもゴルフのためで、中学からゴルフ部がある学校が少なくて、嫌いな勉強をちょっとだけして、明大中野のゴルフ部に入部しました。けれど、ゴルフ部のイメージは常にクラブを振ってボールを打つイメージだったんですが、学校が狭かったのでボールを打つということはほとんどできずに、走らされるばっかりでした。「つまらないなぁ」ということを思いながら1年間は続けていました。
クラスで仲良くなった友達がみんなラグビー部だったというのもあって、中学くらいだと休み時間に外で遊びますよね。その時にボールを触らせてもらったり、一緒にラグビーをしたりしていました。その時に、その友達と同じくらいできている感覚があったんです。それから友達が「ラグビー部に入れよ」って誘ってくれて、「面白そうだな」って思って入りました。ゴルフは個人的に続ければいいかなという思いもあったので、中学2年生からラグビー部に入りました。

米元選手

――両親からはラグビー部に入ることに対して何か言われましたか?

今は小さい子でもゴルフをやっていますが、僕の頃はまだそんなにいなかったんです。当時は小学生なりにプロゴルファーを目指していたというくらい真剣にはやっていたんですが、ゴルフからラグビーに変わるということに対しては、親は特に文句も言わなかったです。ゴルフを真面目にやってきた分、ちょっとは残念がっていたとは思うんですが、「やりたいならラグビーをやりな」と言ってくれました。

――ラグビーを始めて最初のポジションは?

僕はずっとフランカーですね。

――中学のラグビー部は強かったのですか?

強かったですね。僕が中学3年の時は公式戦は1回も負けなかったと思います。今は分からないですけど、当時のいちばん大きい大会で東日本大会というのがあって、そこでも優勝しましたから、中学のラグビー部は強かったですね。

◆高校~大学

――高校はどこに行かれたのですか?

高校はそのまま明大中野高校です。高校のラグビー部はそんなに強くなかったですね。人数が少なく、1年の時から試合には出ていましたが、高校2年の時に都大会の決勝、3年の時は準決勝で負けてしまったので、花園には行けなかったです。

――高校で一番の思い出は?

高校では楽しいことよりも辛いことの方を思い出しますね。1年の時に先輩から走らされたり、夏合宿の時は、今はあるのか分からないですが、ランパスといって100mを5人位でパスをしながら何十往復も走らされたりもしました。あと、監督が60歳くらいの方で、すごく厳しい人でした。試合に負けるとまたひたすら走らされました。いま思い出すとキツイ思い出が多いですね。
あと1年生は雑用もさせられるので、中学から一緒に続けていた同級生は、最初20数人いたんですが、みんな辞めてしまって6,7人になっちゃいました。それでも、雑用とかはしなければならないので、先輩が帰った後に部室でみんな集まって愚痴を言いながらジュースを飲んだ記憶があります。中学から一緒にやっていた友達がそのまま残っていたら、花園にも行けたんじゃないのかなって思ったりもします。

――高校になって対戦相手のレベルも上がりましたか?

やっぱり中学と高校では違いましたね。特に国学院久我山高校が東京では有名ですが、中学の時は余裕で勝っていたのが、高校では負けていたので、「何であんなに勝っていたのに勝てないんだ」っていう悔しさがありました。

――大学は関東学院大学に進まれましたね?

明治に行きたいという思いはあったんですけど、明大中野から明治に行くにはラグビー推薦では採ってくれないんです。なので、勉強推薦で来て欲しいとは誘われていたんですが、勉強が嫌いだったので、勉強推薦で行けるか行けないかのボーダーライン上でした。もちろん行けるなら行こうとは考えていたんですけど、その試験の結果が分かるのは1月なんです。もし仮にその試験で行けなかったら、他の大学のスポーツ推薦は終わってしまっているので、どうしようかと悩んでいる時に、たぶん6月くらいだったと思うんですが、監督が「他の大学ででもラグビーを続けさせてやりたい。明大が危ないのであれば、知り合いに頼んで他の大学を紹介する」と言ってくれて、紹介してくれたのが関東学院大学だったんです。
その頃の僕は大学のラグビーは明治しか知らなかったので、関東学院はリーグ戦では上位にいるけど、あまり試合も見たことがないチームで、最初は「関東学院かぁ」という印象はありました。それで1度グラウンドに行ったら、その当時は、芝生のグラウンドが珍しかったんですが、芝生のグラウンドが3面くらいありました。それに明治の1年生は白いジャージに白い短パン、白いソックスで、ジャージには名前を書かされるんですけど、関東学院は自由でした。また練習の雰囲気も良い印象を受けました。グラウンドと練習の雰囲気を見て、「ここがいい」と思い、関東学院に決めました。

――明治大学への未練はなかったですか?

関東学院に決めた時点では、まだ迷いはありました。けれど、ちょうど僕が入学した年に関東学院が初優勝して、その次の年も優勝したんです。僕はその時はまだ試合に出ていなかったんですが、その決勝の相手が明治だったんです。その試合で勝てたから、未練というのはなかったですね。もし負けていたら明治に行けばよかったとは思ったかもしれないですが、運よく優勝した年に入れたので、関東学院に決めて正解だったと思いました。

――練習はきつかったですか?

高校の時は根性論というか、「気合だ!」「走れ!」という感じで、技術的なことを教えてもらったことがあまりなかったんです。関東学院の練習は、もちろん走ったりもしましたが、高校に比べてキツさというのは感じなかったですね。あと、初めての練習方法ばかりだったので、楽しみながら練習できましたし、考えながらプレーする環境がありました。今までは言われたことをやるだけという練習でしたが、大学に入って、自分で判断したり、考えなきゃいけないと思えるようになったのは、春口先生(当時の監督)の練習方法であったり、試合中のアドバイスの影響が大きかったですね。
初めての練習方法で面食らったというのもありましたけれど、大学でもこんなに基本的な練習をするのかという部分でも、ある意味面食らいました。最初は基本的な練習に疑問を感じましたが、関東学院が強くなったベースにあるのは、全選手が基本的なことをしっかりできる、基本ができているからそこから応用もできるという部分だと思います。僕も大学4年くらいになって、そのことに気付きました。

――そこでラグビーの楽しさが変わったんじゃないですか?

そうですね。全く変わりました。プレースタイルも変わりました。明治を悪く言うわけじゃないですが、明治には伝統的にフォワードが強いというのがあるので、僕の体には合っていないと思うんです。関東学院に行ったから、まだラグビーをやっているのかなと思います。

――プレースタイルはどのように変わったのですか?

中学校くらいから身長も変わっていなくて、高校まではボールを持ったら、走って当たってというようなプレースタイルだったんです。明治の付属高校だから、明治の影響もあったかもしれないです。けれど、大学1年の時の部内での練習試合で、僕より小さいバックスの選手に持ち上げられて倒されたんです。その時に、大学ではこのままでは通用しないと感じました。そこでプレースタイルを変えるか、もっと体重を増やしてパワーで勝負するかの2通りの選択肢があったと思うんですが、僕はパワーで勝負するという考え方にはなれなくて、プレースタイルを変えました。
大学1年生までは、ボールを持つことをいちばんに考えてプレーしてきましたが、そこを変えて、サポートのプレーであったり、パススキルを上げて、どうやって大きい選手に勝つか、そういう所を考えてプレーするようになりました。

――大学での一番の思い出は?

それは大学4年の時に優勝したことですね。3年まではリザーブでたまに試合に出ていたんですが、4年の時は全試合スタメンで出場しました。
あと寮生活ですね。今までずっと親元で暮らしていたので、寮生活は思い出に残っています。1年の時は4年生と一緒の部屋で、最初の頃は分からないことばっかりで緊張したんですが、関東学院はそんなに上下関係も厳しくないので、嫌なことはなかったですね。2年からは1人部屋で、寮といっても、1人の時間を持ちたいと思えば持てるし、寂しいと思ってもすぐ友達がいるので、すごく楽しかったです。

米元選手

◆キヤノン~三洋

――大学卒業後は?

卒業後は何人か先輩もいたので、キヤノンの販売会社(キヤノンビーエム東京株式会社、現在のキヤノンシステムアンドサポート株式会社)に入りました。大学である程度満足した部分があったんだと思います。あとは体が小さいというのがあったので、社会人では無理だろうなという思いもありました。その頃のキヤノンのラグビー部は、本社やグループ会社を合わせて1つのラグビー部だったんです。たしか関東社会人2部くらいに所属していたと思います。その頃のラグビー部の活動は平日仕事をして、週末だけラグビーをしていました。
社会人の強いチームからのスカウトは3年のときに試合に出ていないと来ないんですよ。4年の時は試合に出ていたので、卒業間近に何チームかお話はあったようですけど、その頃にはキヤノンの販売会社に決めていましたし、地方に行く気もあまりなかったんです。キヤノンの販売会社だったら実家からも通えるというのもありました。

――そこから三洋電機に移籍されましたね?

キヤノンの販売会社には1年間いました。正確に言うと12月までだったんですけど。まぁ6月くらいから気持ちは動いていましたね(笑)。関東2部でやっていたので物足りなさもあったし、まだチームも弱かったんですよ。けれど、その弱いレベルでやっているからといって、自分が目立つかというとそういうわけでもないんです。もし僕が190cmくらいあって、ボールキャリアができれば、そのレベルで目立ったんでしょうけれど、結局自分で切り開くこともできなかったんです。 僕は15人の中で役割を果たしてはじめて機能する選手なんだと改めて思い知り、組織的なラグビーのできる強いチームに行かなければ成長できないなと感じました。。 社会人になって2ヶ月くらいで早くも移籍したいという思いになっていました(笑)。
それを決定的にしたのが、春シーズンに関東学院と早稲田が練習試合をした時に、その試合を見に行った時でした。1つ下の友基(今村)とかが出ていて、そのラグビーが凄く楽しそうなんです。結局は関東学院のラグビーが好きだったというのもありますけどね。あと、いま三洋にいる若松(大志)が大学の同期だったんですが、留年して残っていて、試合にも出ていたんです。上のレベルでラグビーをしている姿を見て、すごく羨ましくなって、強いチームでラグビーがやりたいという思いが強くなりました。けれど、キヤノンに入るために動いてくれた人もいて、恩があったので1シーズンはキヤノンでやりきろうと、やりきった時にもう1回考えようと思ったので、シーズン中は他のチームにもそういう話はしませんでした。
それでシーズンが終わって、関東学院と法政の試合を見に行った時に、僕らの代から関東学院のコーチをしていた外国人コーチが来シーズンから三洋に行くという話になったんです。それでその試合の時にコーチに移籍を考えているという話をしたら、「じゃあ三洋に来いよ」って言ってくれたんです。その時に連絡先を渡したら、2日後くらいに当時採用担当していた飯島さん(現三洋電機監督)から電話がかかってきて、「ぜひ三洋に」と言ってくれました。その時、クボタと三洋から話があって、当時はクボタの方が強かったんですけど、あのコーチが三洋に行くのであれば、大学の時のようなラグビーができると考えて、三洋を選びました。今となっては三洋を選んで正解だったと思います。大学でもそうですけど、その分岐点でラッキーな方へ進めているんですよね。

――移籍する時はスムーズに進んだんですか?

そうですね。もちろんキヤノンの人にも話をしなければいけないので、当時ラグビー部の部長をやっていた佐藤さん(一弥/現GM)に「話があります」と言いに行ったら、すぐに「お前のそんな真剣な顔は見たことがない、わかった」って言ってくれて(笑)、「お前はここでラグビーするよりは三洋に行った方がいい」と言ってくれて、快く送り出してくれたんですよ。本当に感謝しています。

――三洋には何年在籍したんですか?

7シーズンいました。

――では日本選手権での優勝も経験したんですね

そうですね。トップリーグでは結局タイトルは獲れませんでしたけれど。

――キヤノンから三洋に移籍して、戸惑いはありましたか?

キヤノンではほとんど週末しか体を動かさなかったので、1月くらいから週5回のペースでトレーニングをしてから三洋に入ったので、練習に付いていけないということはなかったですね。けれどパワーの違いというものは感じました。大学とは全然違うなと感じました。スキルの部分では、正直「下手だな」と最初は思いました。

――プレースタイルを変えようと思いましたか?

大学の時にプレースタイルを変えたといっても、まだボールを持つ機会は多かったんです。三洋に入ってからはボールを持つというよりは、サポートのプレーやラックでのプレーを意識するようになりました。基本のプレースタイルは変えなかったんですが、チームの戦術や監督が求めていることをより早く理解しようという、頭の部分では大きい選手に負けないようにすることを意識してやっていました。そうしているうちに、必然的にボールを持ってのプレーよりもサポートのプレーをするようになっていました。

――三洋にいた選手とはすぐ打ち解けられましたか?

三洋も雰囲気はすごく良くて、僕が入った時に若い選手が多かったというのもあるんですが、大学の時から顔は知っていた選手もいたので、問題なく入れましたね。その当時は、関東学院から三洋に入った選手はいなかったので、関東学院から初めて入ったのが、1つ下の角濱(嘉彦/現近鉄ライナーズ)と榎本(淳平)と僕の3人でした。

――米元選手が三洋に入って、徐々に三洋が強くなっていきましたね

ちょうど強くなる時期にいれたというのは本当ラッキーでした。大学の時と似ています。

◆キヤノン

――三洋からまたキヤノンに戻ってきたきっかけは?

去年の夏前くらいに佐藤GMから連絡があったんです。キヤノンを辞めてから年賀状のやり取りは毎年していたんですが、電話で話したのはキヤノン時代以来でした。いきなり佐藤GMから電話が来て、「キヤノンが正式にラグビー部を作るから、帰ってこないか?」と言われました。その話を聞いた時にすぐに「戻ろう」と決めました。

米元選手

三洋ではプロ契約だったんですが、その時がちょうど契約終了の時だったんです。そういう意味でもタイミングが良かったですね。三洋で契約更新という可能性もありましたけど、移籍しやすい時期でした。それと子どもが小学校に入学する時期だったんです。もし三洋にあと1年2年いて移籍した場合、子どもが転校しなければいけなくなって、できれば子どもに転校はさせたくなかったので、だったら小学校に入る前に移ろうと思いました。
8年前にキヤノンで何もできずに三洋に移籍したので、少しはキヤノンに恩返しが出来るんじゃないかという思いもありました。そういう色んなタイミングがいい方向に重なったので、電話を受けた時にすでに気持ちは固まっていました。それから嫁と両親に相談して、みんな移籍することに賛成してくれたので、キヤノンに移ることを決めました。

――移籍してきた時のキヤノンの雰囲気は?

8年前にいた時のメンバーはもう誰もいなくて、当時は本当にクラブチームのような雰囲気だったので、全く違うチームと感じました。けど、それでもまだ甘いとも感じました。

――それはどの辺がですか?

去年の夏から正式なラグビー部として活動はしてきたんでしょうけど、ラグビーに対する姿勢とか、練習の雰囲気も良くなかったですね。けど、僕が移ってきた4月からこれまでで、その雰囲気も変わって良くなっています。

――それは米元選手が率先して働きかけたんですか?

声を掛けたり、なるべく厳しいことも言うようにしています。年も上から2番目ですし。特に役職があるわけではないですけど、そういうことは関係なしに、キヤノンに来ることが決まった時点で、ベテランの立場になるのは分かっていたんで、若手に厳しいことを言うことが役目だと思っていました。あと、僕はずっと三洋で試合に出ていたわけではないですけど、強いチームを経験してきたので、そういうことをチームに伝えようと思いました。もちろんプレーのことを教えることもそうですし、考え方や練習の雰囲気を伝えていくことが役目だと思っていたので、できるだけ率先してやるようにしました。
あと練習の雰囲気が変わったのは、移籍してきた選手が率先して盛り上げようとしていることや、元々いた選手や新人選手も意識が変わってきているから、こういういい雰囲気になっていると思います。それに永友さん(洋司/ヘッドコーチ)の影響が大きいですね。もちろんグラウンドで厳しいことも言いますし、雰囲気を作るのが上手いと思います。

――それは言葉であったり、姿勢ですか?

そうですね。グラウンドの端でただ見ているだけではなくて、一緒にグラウンドに入ってきて、褒めるところは褒めて、常に選手とコミュニケーションを取ってくれるので、永友さんがいるとグラウンドに緊張感が出ますね。選手を練習に集中させるのがすごく上手いと思います。

――練習外ではどうですか?

普段話すときは、本当に気さくに、冗談を言いながら話してくれるので、今のキヤノンにぴったりのヘッドコーチじゃないですかね。

米元選手

――キヤノンのトップリーグでも通用する点と、改善しなければいけない点はなんですか?

たぶん個人個人では通用する部分もあると思いますが、チームとしてチャンスとピンチでの集中の切り替えというか、意識しなければいけない部分での切り替えができていなかったりしますね。個人の判断力でも足りない部分があります。コンタクトが嫌いな僕が言うのもなんですが、トップリーグではコンタクトの部分でも足りないと思います。けれど、今は通用しなくても、これから作っていくチームで、永友さんも言っていますが、トップリーグに上がることが目標ではなくて、トップリーグでも勝ち抜けるチームが目標で、トップリーグに上がったときに、キヤノンの売りにしたい部分がディフェンスだと僕は思います。もしこれからキヤノンがどれだけ成績を上げても、キヤノンはディフェンスが良いチームという風に持っていくんだろうなって思います。点数を獲られなければ、少ないチャンスでも得点すれば勝てるわけですし、そういうチームに持っていく気がします。
あとは、まだ気持ちで弱い部分があったりするんですよね。良い状態を常に発揮できないんです。試合の中でも良かったり悪かったりの波があるし、試合毎で波があったりします。それはまだ本当の実力ではないからだと思います。キヤノンのキーワードとして「我慢」というのがありますが、ディフェンスと共にアタックでも我慢のできるチームにこれからなっていけばいいと思います。

◆仕事と家族

――会社ではどういった仕事をしているんですか?

品質本部というところで働いています。キヤノン製品の情報、例えばコストであったり品質であったり、そのような情報を収集し、まとめたものを他の部署に発信しています。8年前は販売会社で営業をしていたので全く違う仕事です。

米元選手

――8年ぶりにキヤノンの仕事はいかがですか?

パソコンのスキルもなく、ほぼ新人と同じだったので大変でした。今でも仕事ができているという感じではないですが、言われたことがやっとこなせるようになってきました。いまだに日々勉強です。キヤノンに入ったからには仕事とラグビーを両立していこうと決めていたので、家族もいることなんで、やるしかないという感じです。
最初の2~3か月でいちばんキツかったのは通勤です。キヤノンの販売会社の時は20~30分で会社に着いていましたし、三洋の時はまず電車に乗ることがなくて、しかも家からグラウンドまで車で2分位の距離だったんです。練習に行くわけですから格好もジャージやスウェットで、その当時はスーツなんて公式戦と友達の結婚式でしか着ないものでした。その生活が7年続いたので、今のように毎日スーツを着て、朝の満員電車で1時間くらいかけて会社に行くという生活は、最初はキツかったです。中学、高校を合わせても、人生で一番長い通勤時間です(笑)。

――お子さんは男の子ですか?

男です。保育園の時から試合を見に来ていたり、遊びでラグビーボールを与えたりしていたんですが、本格的にラグビーを始めたのは小学生からです。いま、家の近くに日本大学ラグビー部のグラウンドがあって、そこで地域のラグビースクールをやっていて、1度見学に行ったら「やりたい」って言ったので、4月頃からラグビースクールに入って、週1回のペースでラグビーをしています。自分から「やりたい」と言って くれたので、嬉しかったですね。

米元選手

お子さんと米元選手


――お子さんがラグビーをする姿を見て、センスを感じますか?

センスないですね(笑)。足が遅いんですよ。嫁は運動が苦手なので、そっちに似たのかなと思います。けれど、ラグビーはいろんなタイプの人ができるスポーツなので、これからどうなるか分からないです。まだ1年生ですし。あまり早くからラグビーを始めると飽きちゃうんじゃないかと、いろんなスポーツをやって、高校くらいからラグビーを始めればいいなと思っていたんですが、今は楽しくやっているので、このまま楽しく続けてくれればと思います。ただ嫁は僕が怪我しているのを見ているので、ラグビーをやっていると「将来怪我するから嫌だな」とは言っていました。あとラグビーの他に空手もやっているんです。習い事ばっかりで忙しい感じです。

――もしお子さんが将来ラグビーではなく、空手を選んだらどうしますか?

それはやらせますね。やっぱり強制してやらせても続かないでしょうし、基本的には選ばせてあげて、応援するという形を取りたいです。人として外れる道には行かせないですが、スポーツにしても勉強にしても行きたいという方向に行かせてあげたいです。それは僕も親にそういう風にしてもらったからかもしれないですね。
僕がゴルフをやめてラグビーを始める時も親は何も言わなかったですし、ましてラグビーを始めたら、親がラグビーにはまっちゃって、毎試合どこで試合をしようが応援に来てくれたんですよ。いまだに応援に来てくれます。そういう風にサポートをしてもらって、今までやってこられたというのを感じるので、自分の子どもにもそうしてあげたいです。
唯一、親に怒られたことがあって、僕が高校1年の時にラグビーの練習がきついのもあったし、遊びたい時期だったので「ラグビーやめようかな」って言ったことがあったんです。その時は親から「ゴルフもラグビーもやめて、何もかも中途半端なままだよ。ラグビーを選んだんなら最後までやりなさい」って言われました。その時に「やめれば?」と言われていたら、今はなかったですね。そこでやめさせないでくれたことに凄く感謝しています。だから僕もそういうスタンスで子どもと付き合っていければと思います。

――では最後にキヤノンR.F.Cファンの方にメッセージをお願いします

職場でもいろいろと迷惑をかけていますし、感謝の気持ちは持ち続けなければいけないと思っています。会社のサポートや職場の理解がなければ、こういういい環境でラグビーはできないので、それに応える結果を出さなければいけないと考えています。あと何より嬉しいのは、グラウンドでの声援です。そして応援に来てくれた際には、会社にいるときとは全く違う僕らの姿を見て欲しいです。たぶんみんな、職場より活き活きしていると思うんですよ(笑)。なので、そういう姿を是非見に来て下さい。

米元選手

お世話になっている職場の方々と