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キヤノン ラグビー フットボール クラブ 選手インタビュー
vol.20 清水 直志『キヤノンで日本一に』
――初めてのリーグ戦を終えて、振り返ってみていかがですか?
リーグ戦中盤まではトップイースト内だけを見ていたのですが、三菱重工さんに勝った時くらいからチームがトップチャレンジやその先を見るようになりましたね。トップイーストは全勝するとずっと信じていたので、今のところ思い描いていた通りになりました。
――リーグ戦を通じて、ほとんどの試合でスタメンフル出場しましたが、それに関してはどうですか?
リーグ戦が始まる前は、これほど試合に出られるとは思っていなかったのですが、本当にチャンスをたくさんいただいていると思っています。
――自分の強みはどこだと思いますか?
いまの段階でチームに貢献できることは、ディフェンスと運動量だと思っています。
――もともと運動量はある方だと思いますか?
ボールを持って派手なプレーができるわけではなくて、大学の時からそういうスタイルでやってきたので、キヤノンに入る前からある程度は運動量がある方だったと思います。早稲田のフォワードは小さい方だったので、常に大きい相手にどう勝つかということを考えてきました。やはり大きい相手に勝つためには運動量で勝つしかなかったので、そのために厳しい練習を積んできました。
――相手が社会人になって、さらにその体格差というものを感じましたか?
トップイーストで試合をしている分には、まだそこまで体格差を感じることはなかったですが、夏に三洋電機さんと試合をした時にはもの凄く体格差を感じました。フィジカルや激しさが全く違いましたね。
――三洋電機さんと対戦して、トップリーグでも通用する部分があると感じた所はありましたか?
正直、トップリーグの試合を見ていると、いまのラグビーレベルと全く違うので、このままでは通用しないと思います。激しさが全然違うので、まずはフィジカルを強化していかなければいけないですね。リーグ戦中盤からトップチャレンジを勝ち抜くこと、トップリーグでどうやって戦うかということを考えながらやってきたので、いまは1月15日をターゲットに練習に励んでいます。
――トップチャレンジ、トップリーグが見え始めて、チームの雰囲気も変わりましたか?
Aチーム対Bチームのアタックディフェンスの練習をやる時に、前はBチームの中にAチームにトライを取られて当たり前、という雰囲気がありました。しかし、いまはAチームに絶対にトライを取らせたくない、という思いでBチームも練習ができています。チーム内の競争が激しくなって、良い雰囲気が生まれていると思います。やはり練習でアピールできなければ、試合に出ることはできないので、そういうところから変わってきていると思いますね。
――ラグビーは何歳から始めましたか?
小学3年生からです。その時に野球もやっていて、ラグビーは週1回の練習だったので、ほぼ野球メインでやっていました。
――ラグビーを始めるきっかけは?
ラグビーは従兄がやっていたので始めました。野球はプロ野球を見るのが好きでしたし、いちばん身近なスポーツでした。父親とキャッチボールをしたりしていました。
――小さい頃から運動神経は良かったですか?
周りと比べると足は速い方でしたね。体もクラスで常に大きい方でした。
――中学ではラグビーと野球のどちらをやったのですか?
中学に入った時は本当に野球をやりたかったので、一旦ラグビーをやめて野球を選びました。1年間、野球だけをやっていて、結構いい成績を残したのですが、ラグビーの熱さなど野球にはないものがラグビーにはあると思って、2年からは野球をやめてラグビーにしました(笑)。あとその時に、海外遠征に行きたいという思いが漠然とあって、野球よりラグビーの方が海外遠征は盛んだと思い、そういうところからラグビーがやりたいと思うようになりましたね。
――ラグビー部に入ることに対して、ご両親からは何か言われましたか?
野球ではシニアリーグがあって、常に東京の1位2位を争うようなチームに入って試合に出ていましたが、「もしラグビーをやるなら、一流の選手になれるように頑張りなさい」って言ってくれたと思います。
――ラグビーの最初のポジションはどこでしたか?
高校に入るまでは、ウイングやフルバックをやっていました。いま考えると、もう絶対にできないポジションだと思います(笑)。ウイングやフルバックでは中学生くらいまでが限界でしたね。フォワードとバックスのどちらもやりましたけど、絶対にフォワードの方が面白いですよ。僕にはバックスは向いていないと思います(笑)。
中学のラグビー部は弱くて、チームで上を目指すことが難しかったので、東京都選抜に選ばれるようになって、高校は絶対に花園に出られるような高校に行きたいと思っていました。
――東京都選抜には選ばれたのですか?
中学3年の時に選ばれました。選抜に選ばれると、お正月に花園で開催される選抜の全国大会に出ることができます。その時は、1回戦で大阪と当たりましたが、とにかく大阪の中学が強くてボコボコにやられました。
――高校は國學院久我山に進みましたが、どのような経緯で決めたのですか?
花園に出られる学校ではなくて、花園で優勝できる学校に行こうと思っていました。その時に仙台育英高校が凄く強くて、設備も整えられているので、親元を離れて寮生活をしながら仙台育英に行こうと考えました。ただ、久我山も花園で優勝を目指している学校で、しかも家から凄く近いので、仙台育英か久我山か悩んだのですが、家の近くに強い学校があるなら、わざわざ遠くに行かなくてもいいかなって思って、久我山に決めました(笑)。
――國學院久我山高校の練習はどうでしたか?
國學院久我山は進学校で、勉強もかなりしないといけないので、練習する時間も限られていました。ラグビーは全国レベルですけど、環境だけを見たら恵まれた環境ではなかったですね。ラグビー部だろうと関係なく18時30分くらいになったら、みんな帰らなければなりません。1日の練習時間が2時間もなかったと思います。
――そういう環境でも、全国レベルのチームである理由は何だと思いますか?
やはり全国優勝5回しているチームだったので、伝統の力を感じました。あと誰もが練習時間が短いということを分かっていたので、密度の濃い練習をしていましたね。常に練習で、「花園に参加することに意義はない」って言われていて、全員が花園で優勝するという同じベクトルでやっていたことが大きかったと思います。
――高校時代のポジションはどこでしたか?
高校1年まではバックスでしたが、2年生からはフランカーをやって、たまにロックもやっていました。
――ポジションがバックスからフォワードになった理由は何ですか?
僕は明らかにバックスの選手ではなかったです(笑)。パスもできなかったですし、ガツガツとぶつかっていった方が合っていましたね。中学くらいまでは周りと比べても体が大きかったので、ボールをもらって走ればトライが取れたという感じでした。
――高校時代の成績はどうでしたか?
高校1年の時はメンバーに入っていなくて、花園でベスト16でした。2年の時はメンバーに入ることができて、花園でも優勝候補に挙げられましたが、天理高校に負けてベスト8でしたね。天理に当たらなければ優勝できると思っていたのですが、準々決勝で当たってしまって負けてしまいました。高校3年の時は東海大仰星高校に負けてベスト16でした。全国優勝を目標にやっていましたが、全く届かなかったですね。
――高校日本代表にも選ばれましたが、念願の海外遠征には行きましたか?
念願の(笑)。3週間くらいオーストラリアに行って、オーストラリアの高校代表とテストマッチをしましたが、100点差くらいで負けました。試合前に初めて日本代表として『君が代』を聴いて奮い立つものがあったのですが、試合が始まって10分くらいで、この試合は負けるって思いました(笑)。体格やスピードも違いましたけど、ラグビーのレベルが違いましたね。
――試合が終わった後はどういう思いでしたか?
100点差をつけられて負けた試合が初めてで、何もできなかったと思いましたね。ただボロボロにやられたわけですが、その試合でいろいろな表彰があって、ベストタックラーという賞をもらうことができて、それだけは自信になりました。あとその遠征でホームステイをしたのですが、そのホームステイ先の人とはいまだに連絡を取り合っています。 ラグビーだけではなく、とても良い遠征でした。
――大学は早稲田大学に進みましたが、早稲田に決めた理由は何ですか?
高校3年の進路を決める時に、早稲田が本当に強くて、やっぱりやるなら日本一のチームでやりたいという思いがありました。
――早稲田大学でラグビーをしてみてどう感じましたか?
早稲田大学はAチームからEチームまであって、A、Bチームをシニア、C、Dチームをジュニア、Eチームをコルツと呼びますが、1年生の時はずっとジュニアで、シニアチームは雲の上の存在でした。ジュニアにいる時はAチームと練習をすることも、試合をすることもなかったですね。別のチームだと感じていました。
――Aチームに上がるためのアピールの場はどこになるのですか?
それぞれのチームで他の大学などと試合だけはたくさん組んでくれるので、そこで活躍すると上のチームに上がれます。毎週のように試合があったので、チャンスがないと感じたことはなかったですし、ただ単に自分の実力がないからジュニアのままだと思っていました。
――Aチームに上がったのは何年生の時ですか?
初めて上がったのは3年生の時ですね。2年の時にBチームでプレーしていましたが、その時もAチームに上がるにはまだ力が足りないと感じていました。でもBチームにいる時は、Aチームは別のチームという感じではなくて、あと一歩でAチームだと感じていました。
――1年1年着実にレベルアップしていますが、どんな強化をしていたのですか?
何を強化していったというよりは、気持ちの面ですね。1年生のころはAチームに上がるのは無理だと決めつけていた部分がありました。2年生になって早慶戦、早明戦に出られるチャンスがあと3回しかないと思い、人生で3回しかチャンスがないと思ってからは真剣にラグビーに取り組むようになりました。
――3年生でAチームに上がってからは、ずっとAチームだったのですか?
春にAチームに上がって、対抗戦の開幕戦まではAチームにいることができましたが、その後にすこし試合が空く期間にチーム内での競争があって、Bチームに落ちてしまいました。Aチームの試合でもリザーブだったので、試合にはほぼ出ていなかったです。
――そんな中、気持ちが折れそうになることはなかったですか?
3年生のBチームに落ちてからは、BチームやCチームにいることが多くて、シーズンが深まるにつれて、今シーズンはAチームに上がることは無理だなって思いました。自分の中で勝手に整理がついてしまって、今シーズンは諦めて来シーズンに賭けようと3年の後半からはずっと思っていました。
――切り替えが早いですね
早すぎましたね(笑)。本当はそれじゃいけないと思いますけど、3年の途中から気持ちはすでに来年に向かっていました。
――その頃から社会人でもラグビーを続けたいという思いはありましたか?
ありましたね。4年で試合に出てれば、声が掛かって社会人チームのある会社に行けると思っていましたけど、まったく声が掛からなかったので、ラグビーに関係なく普通に就職活動をしました。その時は、クラブチームでやるしかないかなって思っていましたね。
――4年生になってからはAチームで出場できていたのですか?
春の最初の試合だけBチームでしたが、次の試合からはAチームに上がって、そこからはAチームでプレーができたので、切り替えが上手くいったと思いました(笑)。
――Aチームに上がれたのは何か理由があったのですか?
何かを変えなきゃいけない、という思いで練習をやっていました。ちょうどその時、オバマがアメリカ大統領になった時で、「CHANGE」という言葉が流行っていた時でした。その言葉を聞いて、全てをチェンジしました(笑)。それまで早慶戦も早明戦も大学選手権も1試合も出ていなかったので、全てがラストチャンスだと思い、この1年間に全てを賭けようと思いました。
――4年生の時に早慶戦、早明戦に出場してみて、どう感じましたか?
感無量でした。早慶戦が対抗戦の優勝決定戦になっていて、満員の秩父宮で試合をすることができ、ロッカーを出てグラウンドに入った時の感じは一生忘れられないですね。
――その試合の結果はどうでした?
勝てば優勝でしたが、引き分けてしまいました。その次の早明戦が優勝決定戦となり、その試合で勝つことができて優勝しました。
――その後、大学選手権ではまさかの2回戦敗退でしたね
2回戦でコケましたね。その時は、決勝に行くのが当たり前という雰囲気になってしまっていました。シーズンが始まった時から「決勝まであと200日」とか、そのくらいから決勝だけを意識していました。大学選手権が始まっても、決勝まであと3週間とか話していたので、皆の中で勝てるという気持ちがあったと思います。
――試合途中でどんどん焦りが出てきますよね?
こんなはずじゃなかったという感じでした。ただもう逆転不可能な点差になった時でも、その状況が信じられなくて、これから逆転して勝つだろうという思いがありましたけど、そのまま負けてしまいました。その試合が大学ラグビーの中でいちばん記憶に残っていますね。その時すでにキヤノンに入ることが決まっていたのですが、しばらくしてからキヤノンで日本一になるチャンスがあると思うようになりました。
――3年生の時には南アフリカのシャークスアカデミーに参加されていますね?
3年の夏でAチームにいる時でしたので、自分のいちばん良い時に参加しました。
――参加したきっかけは何だったのですか?
監督が来年のために3年生を連れていくということで、その時にAチームで出ている3年が僕と井上隼一っていうヤツだけで、監督と僕と井上の3人で3週間という短い期間でしたが、南アフリカに行きました。当時世界ランク1位の南アフリカに行くことはないと思っていたので、選ばれて嬉しかったですね。
――学ぶべきことは多かったですか?
トレーニングを受けることも勉強になりましたが、実際にシャークスの練習や試合を見ることができて、そのことが勉強になりました。みんなシャークスでプロになりたいという選手ばかりで、同じ世代の人たちが凄いプロ意識を持って練習していたので、そこで初めてプロというものを感じました。
――食生活も日本とは全く違いますが、体調管理など難しくはなかったですか?
高校生のころから食に関する意識が強くて、普段から食事のバランスを考えています。少し野菜が足りないと思えば、近くのスーパーに自分で買い物に行ったりもしていました。自分で工夫することによって、体調を崩すということもなかったですね。
――チャールズ・ロウアシスタントコーチからも直接指導してもらったのですか?
いま受けている指導と同じ指導を受けました。チャーリーさんはその時から既に日本が好きでしたね(笑)。日本人選手が僕ら2人と、三菱重工の選手が4人くらいいて、全体練習が終わった後に、チャーリーさんが特別セッションを日本人だけに指導してくれました。特別扱いですね(笑)。
――キヤノンに入るきっかけは何だったのですか?
普通に就職活動をして内定をもらったところがあったのですが、クラブチームでラグビーをするのではなくて、本気でトップリーグを目指して、トップリーグでラグビーをしたいという思いがありました。その時からキヤノンがトップリーグ昇格へ力を入れているということを知っていたので、監督に「キヤノンに行きたいです」と言って、連絡を取ってもらいました。それから僕が出ている試合を、塩川さん(チームディレクター)に見に来てもらって、入ることが決まりました。
――なぜキヤノンだったのですか?
チャーリーさんがいるというのもありましたが、やはりトップリーグ昇格に力を入れているということで行きたいと思いました。
――チームに合流して、最初の印象はどうでしたか?
アルベルト(ヴァンデンベルグ)など素晴らしいキャリアを持った外国人選手や、いろんなチームで経験した選手もたくさんいて、 ラグビーを本当に知っている人が大勢いると感じました。ラグビーのレベルも高いですし、本当に好きでラグビーをやっている人たちだと思いましたね。
――社会人になって、ラグビーの違いなど感じましたか?
早稲田の時は、小さい選手でもフォワードとして使ってくれましたけど、小さい選手が社会人でやっていくには、余程の武器がないと通用しないと思いました。
――社会人でラグビーをしている大学の同期と連絡を取ったりしていますか?
トップチャレンジで対戦するNTTドコモと九州電力に同期がいて、メンバーに選ばれるかまだ分からないのに、周りの同期は勝手に盛り上がってくれていますね(笑)。1月15日はみんなで秩父宮に集合しようって話しています。
――大学の時になれなかった日本一という目標がある中で、どういった選手になっていきたいと考えていますか?
自分が生きていく道は、チームの中で誰よりもタックルをすることだと思っています。チーム一のタックラーになりたいですね。
――仕事はもう慣れましたか?
映像事務機事業本部に所属していますが、だいぶ慣れてきました。キヤノンの成長を支えた複写機の仕事に携わっています。
――部署の人は応援に来てくれますか?
秩父宮の試合の時は、何人もの部署の人が応援に来てくれました。それにほとんどの試合を見に来てくれる人もいます。試合の次の日には声を掛けてくれて、凄く有難いと思っています。ホームページに写真が載っていると、「写真見たよ」と声を掛けてくれることもありますし、全く知らない人も声を掛けてくれるので、嬉しいですね。それに僕の部署のいちばんのライバルはリコーなので、早くトップリーグに上がって、リコーと試合をしてくれとも言われたりします(笑)。
――では最後に、ファンの皆さんへメッセージをお願いします
試合会場にたくさんの方に応援に来て頂いていて、本当に感謝しています。来シーズンはトップリーグで戦う姿を皆さんにお見せしたいと思っていますので、まずはトップチャレンジを勝ち抜きたいと思っています。個人的には高校、大学と日本一を目指してきたのですが、その夢が果たせていないので、いつかはキヤノンで日本一という夢を果たしたいと思います。これからもご声援よろしくお願いします。