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キヤノン ラグビー フットボール クラブ 選手インタビュー
vol.21 谷崎 潤平『観客が盛り上がるプレーをする選手になりたい』
――今シーズン、振り返ってみていかがでしたか?
トップイーストを全勝で勝ち抜けたことはとてもよかったです。でもトップチャレンジになって自分たちと相手との力の差を感じることが多々ありました。個人的にも改善すべき点が多く見つかり、悔しい思いが残るシーズンになりました。
――社会人での強さを感じたリーグでしたか?
今までの大学のレベルとは全然違いましたし、1人1人が考えてプレーしていると感じました。僕も早くそのレベルにならなければいけないと感じています。
――これから具体的にどこを強化していこうと考えていますか?
ベースとして筋トレや体づくりは続けていくということがあって、その上でプレー中にもっと考えてプレーしていかなければと思っています。
――体重や筋力は増えましたか?
体重はほとんど変わらなくて。でも筋力は上がりました。ベンチプレスなどの数値を見ても、上がってきています。
――もともと体重は増えない体質なのですか?
どんなに食べ続けても1、2kg増えれば良いほうですね。食事を普通の量に戻すと、すぐ体重が落ちてしまいます。
――体の大きい人との対戦に不安はありませんか?
不安はありますけど、小さいころから、僕よりも体の大きい人ばかり相手にしていましたから、これからも筋トレを続けて戦える体にしていきたいです。
――トップイーストリーグで戦って手ごたえはありましたか?
相手がどうこうというよりは、自分のプレーが良くなかったですね。プレーしていて、「これはアカン」と感じることがあるので、まずは自分のプレーが出来るようにすることです。
――秋田ノーザンブレッツ戦では、独走していたところを追いつかれてタックルを受けた場面が何度かありましたね?
足が遅く感じて、とてもショックでした。
――あの試合は調子が悪かったのですか?
光さん(新井)からボールをもらって走り出そうとしましたが、全然ギアが上がらずに戸惑いました。初めて速く走ることが出来なくて落ち込みました。
――その後、サントリーフーズ戦では改善できましたか?
走ることは全然問題なかったですけど、プレー自体がダメでした。試合のたびに何かしら自分の中で問題点がありますね。今までは試合までの準備をあまり考えたことがなかったのですが、ここにきて問題が出てきました。齋藤さん(隆行/ストレングスフィットネスコーチ)から「1週間でルーティンを作って、ピークを試合に持っていけるようにしよう」と言われて、私生活でも気をつけるようになりました。そこから意識が結構変りました。今は色々試しながら調整しています。
――どういうプレーヤーになりたいと考えていますか?
高校の時はダグ・ハウレット(WTB/マンスター)に憧れていました。やっぱりインターセプトや良いタックルを決めること、走り切ることとか、観客が盛り上がるプレーで「魅せること」のできる選手になりたいですね。
――出身はどちらですか?
福岡県糟屋郡です。福岡空港の近くですね。レベルファイブスタジアムも歩いて行ける距離です。
――何歳でラグビーを始めましたか?
小学4年生でした。福岡県はラグビースクールが多いので、親に無理やり連れていかれました。
――お父さんがラグビーをしていたのですか?
父親は今も高校でラグビー部の監督をしています。
――他にスポーツはしていましたか?
水泳と空手をやっていたのですが、父親との約束があって、1級とか黄帯になるまでは辞めるなと言われていました。一緒に始めた友達が次々と辞めていったので、目標を達成した瞬間に辞めました。
――ラグビーに関しては、何か目標を設定されていましたか?
その時は特になくて、小学校卒業まではただ連れて行かれてやっていました。小学校卒業の時に、チーム内で目標を言うのですが、「辞めます」なんて言えない雰囲気なので、「試合が楽しいので、これからも続けます」って言いました。結局そのスクールで中学まで続けました。
――その中でラグビーが面白いと感じた所はどこだったのですか?
試合ですね。とにかく試合は楽しかったです。
――そのころポジションはどこでしたか?
足が速かったので、ウイングです。もうずっとウイングをやっています。
――中学でのラグビーはどうでしたか?
小学校卒業の時に「続けます」って言ったのですが、中学ではサッカー部に入りました(笑)。ラグビースクールは日曜が練習で、サッカーの試合がある日はサッカーに行って、ラグビーの試合の日はラグビーに行って、楽しい方ばかりに行っていましたね。
――サッカー部に入ることに対して両親は何か言いませんでしたか?
その時は何も言いませんでしたけど、ラグビーをして欲しそうにしていましたね。中学と高校で一緒の敷地だったのですが、親がラグビーの指導をしている隣で僕がサッカーの練習をしていたので、戸惑っていた感じはありました。
――サッカーの経験がラグビーに活かせたことはありましたか?
大学の最後の方はコンバージョンを蹴っていて、「サッカー蹴りだな」って言われたりもしましたけど、結構入っていたのでキックに関してはサッカーの経験が活かせたと思いましたね。
――サッカーはいつまで続けましたか?
中学2年までです。中学2年の時にニュージーランドへ引っ越したので、それまでは続けていました。
――なぜニュージーランドに行くことになったのですか?
父親がいきなり「ニュージーランドに行くぞ」と決めたからです。僕が中学1年の時に母親が亡くなって、父親は1年間1人で仕事をしながら子育てもしていました。でも限界を感じたみたいで、父が子育てに専念できて、ラグビーも学べるニュージーランドに引っ越すことになりました。
――ニュージーランドにはいつまでいたのですか?
高校卒業までの5年間ですね。ニュージーランドの高校でもラグビーを続けました。
――それで練習中や試合のハーフタイム時に通訳をしているのですね
秀さん(佐藤 秀典/通訳)がいないときはがんばって、なんとか通訳もしています。だけどマウさん(真羽 闘力)の方が上手なので、マウさんがいる時はお願いしています。今ではJP とも呼ばれています。社会人になってそんな名前を付けられるとは思ってもみなかったです。
――ニュージーランドでの生活はどうでしたか?
健全でした(笑)。ゲームやカラオケもなくて、日本の高校生がするような遊びをする場所がありませんでしたが、大きいグラウンドはたくさんあったので、朝学校に行って放課後にラグビーをして、家に帰ってご飯を食べる、という生活をしていました。ラグビーを通じて友達もたくさんでき、ラグビーがもっと好きになりました。
――いきなりニュージーランドに行くことになって、言葉など大変ではなかったですか?
言葉の壁はかなりありました。中学の時点で英語の成績が2でしたから(笑)。ただラグビーをして友達ができれば、いろんなことを話しかけてくれて面倒をみてくれました。そのおかげでどうにか適応できました。
――知らない環境の中に入っても上手くできるタイプですね
最近はあまり......(笑)。あれが中学の時で良かったと思います。
――日本のラグビーとは違いがありましたか?
発想が豊かだと感じました。選手同士で「こういうプレーもあるよ」って教え合ったり、オールブラックスの試合が多く見られるので、良いプレーは真似したりしていました。
――ニュージーランドでは試合に出ましたか?
カンタベリー地区の大会に出ていました。1つの学年に3つくらいチームがあるので、みんなが試合に出られる環境でした。試合で成長していく感じでしたね。
――チームの成績など覚えていますか?
優勝の経験はないのですが、最後の学年ではトライ数がリーグ戦2位でした。ディフェンスをかわしていくプレースタイルなので、体が小さくてもトライを取ることが出来ました。
――日本に戻ってくるきっかけは?
インターネットや中学の同級生からのメールで、日本の高校生が凄く楽しそうに見えました。だから大学は日本の大学に行こうと決めて、何校か受験して立命館に行きました。
――お父さんも一緒に日本に戻ってきたのですか?
いえ、父親は最初から3年の予定だったので、3年間で日本に戻りました。だから高校の途中からは、ホームステイや寮に入ってホストファミリーや友達と生活していました。
――大学でもラグビーは続けていこうと考えていたのですね
ニュージーランドでのラグビーがすごく楽しかったので、続けることを前提に大学を探しました。
――また日本のラグビーに戻ってきて、戸惑いはありましたか?
最初はやはり戸惑いましたね。毎日練習するとは思っていましたけど、あんなに厳しい練習だとは思わなかったです。僕が大学1年の時の監督が、元オールブラックスキャプテンのウェイン・シェルフォードでした。それも立命館に決めた理由のひとつでしたが、シェルフォードが監督ならば練習もニュージーランド式だろうと思ったのですが、上下関係も厳しくてかなり予想外でしたね。
――1年生の時に試合には出場しましたか?
Bチームでの試合には出ていました。高校の時に走りこみなどはあまりしなかったのですが、フィットネスはけっこう高かったです。
――Aチームでの出場はいつからですか?
3年生の時からです。1年の時はニュージーランドの感覚でやっていましたが、日本の感覚に慣れてきたのでAチームに上がれたと思います。
――記憶に残っている試合はありますか?
3年生の時にAチームで公式戦に出て、80年くらいぶりに同志社大学に勝った試合です。それと負けた試合ですが、大学選手権で早稲田大学と試合をしたことは覚えています。
あと4年生の時に関西学院大学戦で、2回インターセプトして、そのプレーが『ラグビーマガジン』(ベースボール・マガジン社)に載ったのは嬉しかったですね。
――対抗戦で優勝した早稲田大学との試合はどうでした?
組合せを見て、「マジか~」って思いました(笑)。けど試合前にはチーム全体が「やってやる」っていう雰囲気になっていて、タックルも早稲田に対してバンバン刺さっていて、この試合が出来ていたら、関西リーグで優勝できたかも知れないと思いました。
――社会人でもラグビーを続けようと思った理由は?
小学校からラグビーを続けてきて、ラグビーのない生活をしたことがありませんでした。ラグビーのない生活にも興味を持ちましたが、大学3年、4年とAチームで試合に出ることができたので、まだラグビーをやりたいという思いがありましたし、何といっても100%の力を出している感じですね。それとトライを取るとみんなが喜んでくれますし、チームのために何かできる喜びがあります。
――キヤノンに決めた理由は何ですか?
声を掛けて頂いて、さらに高いレベルでラグビーをしたいと思うようになり、せっかく上を目指すラグビーができるチームに呼んでもらえるのだから行こうと決めました。
――入る前にどんなイメージがありましたか?
強化していることは聞いていましたが、実際にチームと合流したら凄く強化しているとヒシヒシ感じています。それと会社としても力を入れてくれていると感じています。
――実際に合流して、プレーに関して感じたことはありますか?
まずは大学生とは体が違うと感じました。あとはチームが勝つためにどうすればいいのかを全員で考えているので、意識の違いも感じました。
――いま試合に出場している人との差は何だと思いますか?
積極性だと思います。積極的にやっていかなければ、取れるものも取れなくなってしまうと思います。ボールを呼ぶ声であったり、逆ラインに参加していくことであったり、1つ1つのプレーで終わるのではなく、ダウンしてからもう1回ロールするとか、自分からコールしてサインを出したり、そういう積極性を出していかなければいけないですね。
――チームにニュージーランド出身の選手がいますが、ニュージーランドの話などしましたか?
チョコさん(アリシ・トゥプアイレイ)が僕の通っていた学校のすぐそばの出身で、結構地元トークで盛り上がりました。「どこの学校?」と聞かれて答えると、「その近くのスーパーを曲がったところに住んでいた」なんて話しましたね。その話をしている時は、ちょっと自分をカッコいいと思いました(笑)。
――仕事をしながらラグビーをする環境には慣れましたか?
慣れました。シーズン中は、上司の方に仕事の配分を考慮して頂いているので、もの凄く感謝しています。同じ部署の方が試合を見に来てくれるのも、本当に有り難いです。
――部署はどちらですか?
コーポレートコミュニケーションセンターです。具体的な仕事は、広報や宣伝関係の部署で、その全体を取りまとめる課にいます。
――部署の方々で最初からラグビーが好きな人はいましたか?
「ラグビーが好きだよ」と声をかけてくれる方もいましすし、会社を出るときに笑顔で「いってらっしゃい」と言ってくれたり、上司の方もお子さんを連れて会場に来ていただいたりしています。本当に有り難く思っています。これから更にその輪を広げていきたいですね。
――最後にファンの方へメッセージをお願いします
今シーズン、チームを応援して支えて下さってありがとうございました。皆さんの力強い声援が試合中はもちろん練習でも大きな力になりました。本当にありがとうございました。来シーズンはもっと試合に出場して皆さんの応援にこたえられるプレーをしたいと思いますので、是非また会場で応援のほどよろしくお願いします。