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選手インタビュー

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選手インタビュー vol.8 宮本 安正2010年2月26日

キヤノン ラグビー フットボール クラブ 選手インタビュー
vol.8 宮本 安正(みやもと やすまさ)『ラグビーの魔法にかけられている』


◆生い立ち

――ラグビーを始めたのは何歳からですか?

高校1年生なので15歳からです。

――それまでは他にスポーツをしていたのですか?

小学校の時は野球と剣道をしていて、中学校では引き続き剣道をしていました。中学の時に野球か剣道か、どちらかを選ばないといけなかったんです。その当時は警察官になりたかったので、警察官には剣道の方が必要だろうと思ったので、中学校では3年間剣道をしました。

宮本安正選手

――野球と剣道を始めたきっかけは?

僕は茨城県出身なのですが、その当時、僕の地元ではサッカーはあまり普及していなくて、少年野球を始めるのは自然の流れでした。その時、週1回小学校の体育館で剣道をやっていて、それを親と見学に行った次の週には剣道をやらされていました。でも、野球も剣道も同じくらいのめり込んでいきました。

――剣道の成績は?

団体戦も個人でも、あまり良い結果は残せなかったですね。

――野球のポジションは?

ファーストで4番を打っていましたけど足が遅くて、早く走ればランニングホームランというような打球も3塁までしか行けないこともありました。

――ご両親は何かスポーツをやられていたのですか?

父親は野球をやっていて、母親はバスケットをやっていました。

――バスケットには惹かれなかったのですか?

バスケットには全然惹かれなかったですね。剣道と野球の方が面白かったです。

――体は小さいころから大きかったのですか?

生まれた時は4200gで、中学1年の3学期の健康診断で180cm100kg、体重が3桁になってからは14年間3桁をキープしています(笑)。

――プロップの選手としては大きい方ですよね?

そうですね。トップリーグの中でも大きい方でした。

宮本安正選手

◆高校時代

――高校はどこへ?

茨城県の常総学院高校です。

――最初のポジションは?

ラグビーを始めて15年間、同じポジションです。プロップ3番一筋です。

――ラグビーを始めたきっかけは?

中学3年生の時に近所の高校から「うちで剣道をやらないか?」という誘いがあったのですが、あまりにも近すぎて、「それじゃあ面白くない」と思っていたんです。その時に常総学院が体の大きい子を探していて、中学から常総学院でラグビーをやっていた知り合いから「一度練習を見に来ないか?」って声を掛けてもらいました。その時に初めてラグビーを知りました。ちょうどその週に、常総学院vs茗渓(めいけい)学園の茨城県大会決勝戦がテレビで放送されて、それを見て「あれだけ人にぶつかっても許されるスポーツなのか」って思いました。本当にそのインパクトが強かったです。それがきっかけで常総学院に入りラグビーを始めました。

――剣道とラグビーで迷いませんでしたか?

剣道は小学2年生からやっていたこともあって、その頃は少し飽きていました(笑)。高校3年間剣道やるより、ここで競技を変えてみようと思いました。あと、運動しないという選択は僕にはなかったですね。

――高校で初めてラグビーを体験してどう感じましたか?

僕は30歳なんですが、高校1年生の1年間が30年間生きてきた中で一番キツイ1年間でした。本当に全てが理不尽に感じました。本当にキツかったです。

――2年生の時はどうでした?

2年生の時はそうでもなかったです。1年生の時のキツさは別格です。1年生の時は、「駅で先輩に会ってはいけない」というルールもありました。 朝も帰りもダメなんです。先輩より早く学校に来て、遅く帰らないといけませんでした。 先輩が帰ってから部室を掃除するので、結局家に帰るのが22時とか23時頃になりました。 それに、先輩より早く学校に行かないといけないので、5時台の電車に乗って学校に行っていました。

――そんな思いをしながらもラグビーは続けたのですね?

今考えると、よく続けられたなと思いますね。ただ純粋にラグビーが好きだったから続けられたんですかね。

――ラグビーの魅力はどういうところにありますか?

それがわからないんですよ。本当に魔法にかかっているみたいです。高校で出会ったラグビーを今まで続けられるなんて、全く思ってもいなかったです。人生の半分ラグビーをやっているので、完全に運命としか言えないですね。もう誰にもこの魔法は解けないです(笑)。

――高校の時の成績は?

県でベスト4です。茗渓学園と清真(せいしん)学園という壁があって、それは1回も破れなかったです。

――柔道など体が大きくて有利な個人スポーツは考えなかったのですか?

柔道は少し興味がありましたが、剣道をやっていたのでやりませんでした。よく「相撲界からの話はなかったの?」って言われるのですが、僕の耳には入ってこなかったですね。

◆大学時代

――大学は東海大学に進まれましたが、その理由は?

体育教師になりたいのもありましたし、高校3年の時に高校日本代表の合宿で初めてトレーナーという職業を知って、 トレーナーにも興味がありました。またラグビーもある程度のレベルでやりたいという思いもありました。 それで、先生から体育学部がある学校に行って専門知識を学んだ後に、専門学校に行って資格を取ることもできるとアドバイスをもらいました。 当時の東海大学は関東1部に所属していて、一度高校1年の時に3年生の先輩たちが東海大学の下のチームと試合をする機会があり、 東海大学にも行ったことがありました。その時にキャンパスも見ましたし、学校の雰囲気も知っていたので、自分から先生に東海大学の希望を出しました。

――その時には夢は警察官ではなくなっていたのですね?

その時にはもうすっかり無くなっていました。(笑)

――東海大学でラグビーをしてみて、感じたことは?

今井さん(通)も東海大学で、僕が入った時に4年生だったのですが、今井さんが3年生の時に1部から2部に降格してしまい、 僕が入った時はちょうど2部に降格した後だったんです。その時の1年間は本当に厳しかったです。大学の雰囲気としては、 先輩も優しくて上下関係も厳し過ぎず、良かったですね。田舎にありましたし。

――1年の時から試合には出ていたのですか?

1年の時はリザーブに入ったり入らなかったりでした。同級生に三菱重工で活躍している中村(優一郎)がいるんですけど、彼が3番で出ていました。僕が試合に出始めたのは3年の時からです。その時から社会人でもラグビーをやりたいという思いがあって、高校の監督から「社会人でラグビーをやりたいなら3年の時に試合に出ないと厳しい」と言われていました。ちょうど3年の夏合宿あたりから調子が上がってきて、2戦目からはスタメンで出られるようになって、それからは試合に出ていました。

――大学で一番思い出に残っている試合は?

2年生の時の1部昇格を決めた試合です。相手は山梨学院だったと思います。その試合は僕がリザーブで入っていて、点差もかなり開いていたので、僕以外のリザーブ選手は全員出たんです。けれど、僕だけ試合に出させてくれなくて、それが本当に悔しくて、みんなは喜んでいたんですけど、僕はその輪の中に加わらずにすぐにロッカーに戻って、誰もいないロッカーで悔し涙を流しました。その時、来年は絶対出てやると思いました。

――大学ではラグビーをやりながらトレーナーの勉強もしたのですか?

今はトレーナーのコースができたのですが、当時の体育学部だとアスリートコース、学校体育コース、武道学科とコーチマネジメントというのがあり、僕も含めて体育会1部に属している人はアスリートコースに入るという流れがあったんです。アスリートコースだと競技レベル向上を考えたカリキュラムなので、トレーナーの勉強をする余裕がなかったです。もう卒業するのでいっぱいいっぱいでした(笑)。体育教師の免許は欲しかったので、その免許は取って、後は体育学部を卒業するともらえる資格をいろいろと調べて、その資格に必要な授業は取りました。競技スポーツをしているとトレーナーの勉強は厳しいと感じました。

――社会人でもラグビーを続けようと考えたのはいつ頃からですか?

大学2年から3年の頃ですね。卒業してから何が一番やりたいかと考えたら、やっぱりラグビーだったんです。それで社会人でラグビーをやるのに一番の近道はリーグ戦で目立って声をかけてもらうことだと思い、大学3年で試合に出て頑張ったら、数社から声をかけてもらいました。 その中で一番強いチームが三洋で、そこに行ってチャンスがあればと思って決めました。それに田舎だったので(笑)。僕の中では都会は行くところで住むところじゃないんですよ。三洋から声をかけてもらった時に、場所を調べたら群馬だったし、一度見に行ったら田舎具合もちょうど良かったんです。その時、ここは僕のキャラに絶対合うと感じました。

――群馬だと茨城とも近いですね?

いまは北関東道とか通っていますが、当時は電車でも高速道路でも、一度東京まで出てから茨城に行かないといけなかったので大変でした。

◆社会人時代

――三洋での最初の印象は?

なんと言っても環境面が良いと感じました。あとはみんな体が大きかったですね。天然芝のグラウンドが2面あり、ウエイト場、お風呂場にはホットバスとコールドバスが2つあり、ロッカーは1人1つありました。それにトレーナールームもありましたし、自分たちが自由にラグビーのDVDが見られて、ディスカッションができる場所もありました。本当に環境が良いと感じました。

――大学と社会人では違いましたか?

ラグビーに関して言えば、スピードもパワーも全く違いました。僕が三洋に入った時から強化が始まり、関東学院から来た選手が何人かいました。テレビで見たことがある選手も多くて、後輩にも関東学院の選手が入ってきて、チームに「勝つ」という血が流れ出しました。それがあって、今の三洋があると思います。最初に言った「気持ち」の部分で関東学院の選手は違いました。「やらなきゃ勝てない」とか、当時はコミュニケーションというよりは喧嘩のよう感じで言い合っていました。手は出なかったのですが、毎日そんな感じでした。けれど、それがあったから強くなっていったんだと思います。

――三洋に入って、すぐ試合には出られたのですか?

いや、最初はリザーブでした。僕は妹がいるのですが、僕が三洋に入った年に結婚をしたんです。夏合宿前に日本協会が発表した予定では、その年の開幕戦は9月の3連休の土曜日で、 妹の結婚式が日曜日だったので、妹には出席することを伝えていました。ところが、夏合宿が終わって予定を見たら、開幕戦が1日ずれて日曜日になっていたんです。 開幕戦のリザーブに選ばれていたので、すぐに親に電話して、結婚式には出られないことを伝えました。ラグビーで食っていくと決めた以上、メンバーに選ばれるということは名誉なことなので、 今でもその選択は間違ってなかったと思っています。リザーブだし結婚式に行ったらという人もいましたが、僕は1年目にもかかわらずリザーブに選ばれたんだからという思いがありました。 あと1年目の思い出は、当時のサントリーの1列目の選手に小僧扱いされたことが悔しかったです(笑)。その2年後にその人をスクラムで押せた時は、本当に嬉しかったです。

――今まで組んだスクラムで一番強かったチームはどこですか?

キヤノンでの相手では神戸製鋼とトヨタです。でも当時に比べて今のキヤノンのスクラムのレベルは絶対上がっていると感じます。当時はまだバラバラという感じだったので、今後その2チームとやるのが楽しみです。

――三洋時代に日本代表にも選ばれましたね?

3年目の時です。2年目の時にニュージーランドに留学をさせてもらえて、そこで半年間外国人と同じリーグで試合をしました。地域リーグでしたが、プロの選手も出場していましたし、 シーズンオフにはたまにオールブラックスの選手も出場していました。そのリーグで揉まれて帰国して、その後から三洋でも試合に出るようになって、 そこで日本代表にも声を掛けてもらいました。

――海外での生活は大変でしたか?

三洋から4人の選手が留学したのですが、ニュージーランドに着いて空港のゲートを出たらホストファミリーの4人とニュージーランドのエージェントが1人だけいました。そこで顔合わせをして、集合場所が赤丸で記された地図とガイドブックだけを渡されて、「じゃあ、明日13時に」って言われました(笑)。その後はホストファミリーが「付いて来い」みたいな感じでした。一緒に行った他の3人とはホストファミリーもチームもバラバラだったので、最初は会話ができませんでした。ホストファミリーもゆっくり話してくれていたのですが、本当に分からなくて「どうしよう、どうしよう」ということばかり考えていました。日本に帰りたいと思ったこともありましたけど、2週間くらい経ったら、ホストファミリーが言っていることもなんとなく理解できるようなりました。またこちらからも話せるように単語も覚えるようにして、なんとか片言で話していました。最初の1、2ヶ月間はチームメイトと2人で一緒に出かけていましたが、その後は1人で街をブラブラしたり、ニュージーランドでできた友達と車で観光に行ったりと楽しませてもらいました。

宮本安正選手

――食事は大丈夫でしたか?

ニュージーランドの食事が合ったのか分からないですが、全く問題はなかったです。向こうは基本的に味付けがないんです。生野菜も食べる習慣がなくて、 野菜はボイルして食べていました。牛肉は塩胡椒で焼いただけのものでした。ホストファミリーと一緒に食べる時は、その味付けで食べて、 自分で食べに行く時は中華料理など味の濃いものを食べていました。あと向こうはスナック菓子やジャンクフードが多かったです。夜飲みに行っても、 日本だと刺身など食べられますが、ニュージーランドではチップスやフライドポテトしかないんです。普段のトレーニングでプロテインを飲んでウエイトやっていたので、 体は大きくなって日本に帰ってきました。

――日本代表の練習に参加してみた感想は?

みんな上手いと思いました。試合でも顔を合わせていたので違和感はなかったです。ただ代表での試合でリザーブには入りましたが、試合に出られなかったのでキャップは取れなかったです。(キャップ:ラグビーやサッカーで国際試合に出場した試合または数。イギリスで出場した選手に帽子を与えたのが由来。)

――日本代表もいろんなチームから選手が来ますが、キヤノンの最初の頃も同じ状況でしたね。そういった部分でチームに何かアドバイスはしましたか?

キヤノンに入った時に思ったのは、コミュニケーションが一番大事ということです。グラウンドの中でのコミュニケーションもそうですが、一緒に食事や遊びに行ったり、まず人間を知らなければチームとしてできないと思いました。僕ら移籍組みはとっさに出るコールが、まだ前のチームのコールだったりもしていました。そういう所もチームがバラバラと感じる部分でもありました。半年経って、やっとチームとして一つにまとまってきていると感じています。

◆キヤノン

――キヤノンに入るきっかけは?

三洋でも一緒だった米元さん(勇一郎)が先にキヤノンに移籍することが決まっていました。それに僕も30歳になり、でももっと試合に出たいということもあり、移籍することを考えていました。ただ今も当時も三洋というチームが好きなので、三洋に残ることも考えましたが、試合を観戦し、一番何がしたいのかを考えた時に、三洋でプレーすることよりもラグビーをプレーすることの方が幸せだと思いました。もう一度思いっきりシーズンを戦って、シーズン終了の時に「疲れた」と思えるようなシーズンオフを迎えたいと考えたので、移籍を決意しました。その時ちょうどキヤノンがプロップを探している状況で、「本気でトップリーグ入りを目指したいから力を貸してくれないか?」と言われました。僕ももう一度チャレンジしたかったので、キヤノンに決めました。移籍が決まったのが2009年の3月でした。

宮本安正選手

2008年に、三洋が日本選手権で優勝をしたのですが、2009年の2月の最終日曜日まで試合があり、その前に他のチームの人と会うということは、ラグビー界ではタブーなことなので、三洋での試合が全て終わるまで動くことはありませんでした。その時期では遅いとも言われたのですが、それで移籍できなかったらそれはそれでしょうがないという気持ちもありました。三洋でのシーズンが終わってからチームに移籍のことを伝えたので、結構バタバタしました。

――三洋で同じプロップだった立川選手(大介)も同じ時期に移籍したのですか?

あいつもラグビーをやりたいという思いがあったので、一緒に頑張ろうという感じでした。オフに入っていたので、電話で「僕もキヤノンに行くことに決めました」と連絡があって、「じゃあ一緒に頑張ろうよ」と話をしました。一緒に三洋でプレーしていたので、キヤノンに入ってからもすごくやりやすかったです。こっちがやりたいことも分かってくれるので、その部分で助かっています。昨年は、ドッジ(スティーブン/FWコーチ)にも夏合宿前から「スクラムは頼んだ」と言われています。春に東京ガスとスクラム練習した時は、押されていたんですが、公式戦の東京ガスとの試合(11月3日)ではスクラムトライも獲れました。反省すべきところはありますが、完全に力負けしたわけではないので、これから修正していきたいと思います。試合後に永友さん(洋司/ヘッドコーチ)にも言われたのですが、「久しぶりにスクラムトライを見たよ。けどその後のスクラムを押されちゃダメだよな」って(笑)。

宮本安正選手

東京ガス戦、スクラムトライ後に立川選手と


――まだプレーに波があるのですか?

ラグビーも人間がすることなので、波はあると思うんです。ただその波が大きいチームは弱いチームだと思います。その波が小さくて修正できるチームが強いチームなんです。今のキヤノンはまだバラつきがあるので、その波をどんどん小さくして上を目指していければと思います。

――自分のどういったプレーを見て欲しいですか?

昔はボールを持ったプレーでしたが、今はスクラムが一番自信があるし、まだボールを持って前に行く自信もあるので、その辺りを見て欲しいです。

――会社での部署は?

環境本部です。固定資産の管理をメインでやっています。あとは会議室の設営などです。部署でもラグビーを知っている人が多くて、応援に来てくれる方が何人もいます。グランドで声を掛けてくれたり、ダメ出しもされたりしています。本当に恵まれた環境でラグビーをやらせてもらっています。

――では最後にキヤノンR.F.Cファンの方へメッセージをお願いします

ラグビーを一度見てもらえれば、その面白さも迫力も分かると思うので、ぜひグラウンドに来て生のラグビーを見て、僕と同じ魔法にかかってください。友達にラグビーを見せたりするのですが、その友達は魔法にかかっています。

宮本安正選手